木彫りの天神様に、思う事

 

 

 

井波の木彫りは、長年洗練され続け、完成された型を持っているものが多く、その多くは、浄土真宗独特の処からくる、深い信仰心から来た表現と感じます。

 

 

 

一つ一つに、微妙に違う形がありはしますが、手の位置、足の組み方、全てに、込められた思いがあり、各工房の親方様から、色々な事を学んで自分のものにしていくのです。

 

 

 

僭越ながら、井波の天才職人「南部白雲師」の一職人として、教えられたこと、感じたことなどを、ここに記してみたくなりました。

 

 

 

私が修行に入った、白雲工房は、初代の、瑞泉寺の修復の折の棟梁として名をあげ、二台白雲師では、秀でた観察眼とデッサン力で、生き生きとした、植物もの欄間などの、美しい作品を数多く制作され、

 

 

 

昭和天皇が、高岡の、井波彫刻の展示会をご覧になられた折、二代目の「菊」の大パネルを非常に気に入られ、

 

足をお止になられて、時間いっぱいまで、ご覧下さったとのことです。

 

 

 

そのためか、パネルや欄間などの、仕事が、続き、立体物を触らせていただいたのは、三年目も終わり頃です。

 

 

 

ずいぶん悩んだ挙句、親方に「そろそろ、何か立体物をやらせてください!」と、すがりましたら、案外簡単に、そこまでやりたいなら、五寸の恵比寿大黒を二体、山桜で彫ってみろと言われ、テンションマックスで、ガンガン集中して彫り上げましたら、

 

 

 

「まあ、初めての立体にしては、彫れとる。いきなりだから、彫れるとは思わんだが、まあいいだろう」と、言われ、喜んだものです。

 

 

 

さらに、獅子頭も彫りたいとせがみましたら、元旦の

 

 仕事始めに出るのであればと、許可され、有頂天になって、がんばりました。

 

 

 

それから、初めて白雲工房の「天神様」を触らせていただいたのは、4年か、そのあたりだと思いますが、兎に角資料を調べ、どうしてこのようなお姿にするのか、どのようにお祀りするのか、どんな人生が、今の言い伝えを招いたのか、

 

 

 

兎に角調べたりしました。

 

 

 

それから、自分なりに、こういう「国の行く先を見つめられる天才」であれば、藤原氏の狭量なやり方に、どう対処して、右大臣にまで出世したのか、いろいろ足りない頭で考えました。

 

 

 

もちろん、白雲工房には、しっかりとした伝統の形があり、工房での伝統を守りながら、過去の巨匠の作を自分なりに「ひも解いて」「それから」の天神様を綴っていかなければなりません。

 

 

 

三代目白雲師にも、教えを請いながら、ずいぶん時間のかかった天神様が、出来ましたが、問題は、そのお客様に、幾年も経ても、何かを語ってくれそうな顔になっていたかどうか

 

 

 

今、辻海雄として、制作するようになって、自分の個性に合った図案を描き続けている間に、自分の意思を離れてしまって、あちらから、私の手元に、来てくださるような感じになって、難しい事を何も考えないでも、いい感じに彫れているかどうか、

 

 

 

彫り物自体が、私に教えてくれるようになり、その声を聞きながら、素直に彫るようになっています。

 

 

 

彫師は、皆、龍でも何でも、そうなのです。

 

 

 

木彫りの天神様のお顔についても、お祀りしてくださるお客様の、

 

 

 

気持ちを映すことができるくらいに、彫るように努力をし続けたい。

 

 

 

 

 

 

 

                                              2017/12/1海雄記