私は、辻海雄と言う号で、井波木彫刻という、日本伝統工芸の職人をさせていただいています。
正式には、27で、南部白雲工房の二代目に入門を許されました。
入門したての頃は、優秀な先輩も沢山いて、特に、親方の工房は、大胆で繊細、活きた彫りというコンセプトで、「魂を彫り出す」と言う事を教えられました。
時期的にも、井波木彫刻のまだ華やかな時代でもあり、欄間彫りの、牡丹の花どころか、花びら一枚の形で、かなり本気の喧嘩が出来ました。
一枚の形を表現するのに、二~三日で終わらない事など、修行時代には普通にあり、先輩後輩でも、にらみ合って…あっ‥、しのぎを削っていました。
美術学校時代では、中々よろしいが、「心持ち」こういった感じにしなさい(つまり、心持ちにしか変わらない)‥みたいな教えられ方でしたが、オヤッサン(親方の事)は、違いました。
たった一言で、それを超えます。
「死んどる」良くてもう一言、「もっと活きたものを彫れ」・・
それで、分かる訳がないので、オヤッサンの彫っている物や、初代白雲が頭領をして修理にもかかわった、井波の真宗の古刹瑞泉寺へ行き、一生懸命自分の眼で、勉強をしました。
厳しい人ですが、怒られても、妙に楽しめて、あんまり頻繁に「ダラーっ(馬鹿者)!そんなものも出来がかー」言うので、顔を伏せて、ヒンヒンと、すすり泣く真似をしましたら、急にとんでもなく優しい声になって「おぅ‥泣かんでもいいじゃ・・」みたいなことになり、「ヒンヒン‥ひひひっ‥」ってなるのを、必死に我慢したことがあります。
大東亜戦争の兵士時代の写真を見ると、背筋に寒気が来るくらいの重たい殺気を漂わせているのですが、陸軍での、ピストルの射撃大会では、手を自在に使わないと出来ない井波彫刻の天才だけあって、すべて的に当て、成績は、一番だったと言います。
さて、修業に入ってから、すぐは、どこの彫り物も、いかにも伝統的にしか見えず、あまり、深さを感じられなかったです。
だから、大体は、なめてかかるのですが、実際には、しっかりしたものは、彫れません。
感じられないのに彫れるわけないのです。
個人差は、ありますが、普通に修業していると、だんだん何かが下りてきて、一つ一つの、彫刻の表情、個性も見分けられるようになります。
そうなってきて、何年目かのある日、現在の井波彫刻会館資料館に収められている、二代目が若いときに、初代からどんなに時間かかっても良いからと任された「日本三景」の欄間を、間近に見る機会を得ました。
修理を手伝ったと覚えていますが、はたして、二代目のカミソリのような殺気が漲っていて、それでいて、活き活きとした、大和の神々を感じさせてくれるものでした。
松島は、広々として、あくまで静かな海原に、凛とした気配の松をうっそうと茂らせて、張り詰めた松の葉の緊張感の内側には、秘められた、何者かの気配が、感じられます。
それは、大和の神々の気配です。
それから、天橋立‥、左上部から下部前面に向かって回り込むように構成されていて、はるか高天原より降臨される神々の通り道として表現され、襟を正した身なりの良い松達が、活き活きと彫られています。
私は、最初にパッと目にしたときに、七福神様たちが列をなして楽しくお囃子など踊りながら、いらっしゃるのかとも感じました。
松一つ一つが賑やかに踊っていて、気配だけが存在しているのが、かえって神聖さを保っています。
その向かう先に、鎮座しているのが、厳島神社の大鳥居です、ここから、降臨された神々が、本殿に向かわれ、天の政をされるのでしょうか。
厳島神社の有り様が、鳥観図的に配置され、天橋立からの繋がりが、とても自然で美しいです。
しっかり纏められた図案、社殿全体から狛犬、巫女様まで細かく、折り目正しく、活き活きと彫られているのは、実際にそれ自体が、本物の神社の建設であることの証です。
この欄間の世界自体が、神社なのです。
私は、夜遅くまで、仕事をしている「オヤッサン」の横で、一緒に夜鍋を楽しんでいたので、見たり話を聞いたりしていて、感じました。
私が、知っているもう一人の天才井波彫刻師は、初代白雲の師に当たる大島五雲氏です。
信じられない位の流れるような筆跡で、滞ることなく描き出される、鳥、花、聖獣、風景等の図案は、、そのまま超一流画家の作品としても見ることのできる美しさです。
その彫は、南砺市城端の曳山会館などで見ることができ、私の修行時代には、欄間なども目にしたことがありますが、「オヤッサン」とも違う、霊が潜んでいる空気感を持っていて、おいそれと近づくことも許してくれない感じがします。
他にもたくさんの物の怪的な彫師がおられ、ここで何でもいいから、鑿を持ったまま生き終えられたら、本当の至福だと思っています。
実際、彫りに命を注ぎ切っていた「オヤッサン」の背中は、彫の為のあぐら姿勢をずっと取っていたので、シャツの上からでもはっきり視認出来るくらいに背骨がS字状に曲がって、なぜ、平気で仕事ができるのか、物凄く不思議でした。
それでいて、頭の柔らかさは、晩年まで衰えを見せてくれず、私の彼女のヌードをパネルに彫り、「どうでしょうか」と、見てもらった時など、足頚が死んでないか?
「綺麗な足に彫れじゃ・・そしたら、もっと活き活きしてくるじゃ‥」などと評価していただけたりしました。
現在も、素晴らしい彫師が、根強く活躍されていて、井波彫刻を支えている人々のすごさを、物凄く尊敬しています。
人が、感性をもって感じて、思い入れのある事共を、自分の中で消化して、表現する。
それは、写真、または、3Dプリンターなどとは無関係な場所で行われる、人の営みだと思います。
ヨーロッパでも、「グランドオダリスク」「泉」などで有名な新古典派のドミニック・アングルの時代に、ガラスに硝酸銀などを使用した「写真」なるものが開発され、一部に「もう画家など必要ない」と言う人までいて、ほんの一時だったものの、絵画が力を失いかけた時があったらしいですが、超精細なデジタル写真の時代になっても、絵画の世界は、廃れるどころか、ジャンルが増しています。
井波彫刻を、させてもらっている、ただ、彫るだけしか能のない自分が、そんな人の営みを、かみしめられると言う事自体が、もう、それでいいと言う気持ちになっています。
ちなみに、写真の肖像は、夜なべ仕事の「オヤッサン」の邪魔をして、二十分がかりで写生させていただいたもので、「中々描けとるじゃ」と言って、初めて褒められたもので、嬉しいので、今でも額に入れて持っています。
海雄の、号ですが、これに関して、機会があり、私の親代わりである、和尚様のお寺に、大きな阿吽龍を納めさせていただいた折に、お話しの一つとしてしゃべりましたら、突然、「親方にもらえなかったのは、残念であったの‥じゃあ、わしがやろう」となり、仕事も納め終り、帰るその日に、「海雄」の号を頂きました。
突然とはいえ、四国を代表するお寺の高僧からの、贈り物、ものすごく、うれしく思いました。
まじめに頑張らねば。