井波彫刻に入り、初めて触った仕事(修行です)が、「四君子」という主題の欄間です。 

 

  「梅」「高潔」・「蘭」「清逸」・「竹」「節操」・「菊」「淡泊」 と、それぞれ君子としての品格を重ね合わせて表現した、古来の中国に由来する図案を欄間に著したものです。

 

 鑿研ぎ就業をを終えたら、色々な雑用も覚えて後、先輩とともに、まず、欄間の仕上げをします。

 

親方の欄間での

 

 梅は、まさしくプライドの高い高潔さのとげが、リズミカルでのびやか、花は、毅然として可愛い。

 

 欄は、控えめで、繊細な、優しさがいい。

 

 竹林は、吹き抜ける冷たくて透き通った風、 潔く強い

                                       

  菊は、… 複雑な情念を内に秘めてる。

                                     

 そうやって、古来の伝説とは違う事を想いながら、自分なりの伝説を心に描きながら、全然思うように進まない仕上げを、何日も何日も、いやこうじゃない、これならどうか‥

 

四苦八苦しながら、其れでも少しづつ、思いの場所に近づいて行ってたり、そういった迷い道をさまよっていたら、必ず、美しい宝石のかけらが落ちていたりして、一つ一つを大事に拾い集めるのです。

 

それを、自分の感性で、どのように組んでいくのか、どんな世界を編み上げていくのか、って考え続けていると、無限の、悩みや苦労、喜怒哀楽のようなものが、湧き上がってくる。

 

あと、職人の世界は、ひとりで暗中模索しているわけではなく、先輩だけでなく、後輩の仕事の、ノウハウも勉強するの事も出来ます。

 

それでいて、教えるべき時は、惜しみなく指導し、話し合って、決めたりもします。

 

浅く考えたら、そうやって混ぜあうようなことをしていると、個性が抑えられるなどと勘違いをしますが、実際には、

やりぬいた職人の、誰を取り上げても、はっきりした個性を漂わせています。

 

修行時に「梅に少女」として、訓練学校展に製作出品をしたのですが、その時の梅に対する気持ちは、いわば、「柘植義春」の田舎娘のような感じですか‥

 

 黒柿の象嵌で、黒目を入れ、口紅に朱を入れたことから、異様な妖気が漂ってしまい、高野山縁の女流霊能者のお話を、お聞きせねばならなかったりしました。

 

 

それから、「玉堂富貴」牡丹にモクレン、それに欄(春蘭である場合が殆ど)…、特に修行時代に研究したのが、牡丹の花でした。

 

富貴なオーラのようなものを、実際のボタンから、感じ取るのは、少し難しいと感じながら、欄間として表現される親方の図案には、艶やかと言うか、怪しい色気が漂っています。

 

この花びらを、半年もかけて、追及した先輩の物に、魅了されて、私も、一生懸命研究したものです。

 

伝統職人の仕事と言っても、其れに潜む宝石のような魅力を見つけ出す努力が面白いのですよね。

 

あとで、牡丹の展示会などに行った時に、本物の明るい綺麗さとは、違うものになっていて、白雲工房で、凌ぎを削って表現した情念の深い牡丹の欄間の方が、本物のお花を凌駕していると思いました。

 

江戸期の浮世絵だけでなくて、狩野派などの格式の高い豪壮、それから墨絵等の、大陸からの伝来した表現方法から、平安絵巻などの大和絵なども、

 

日本の伝統的芸術の流れは、西洋のフラスコ、テンペラ、油絵などの見たことの写実を旨としていた発祥とは違い、その始まりから、感じとったことの表現を第一として、太古から存在していたように思います。

 

こんなことも、井波欄間の修行に来て、少しずつ気が付いた事です。     

 

2018/1/20海雄記