兄妹

 

少し古いかもしれませんが、「妹」と言う映画がありました。

 

 妹を心配する一生懸命な兄との物静かな物語私は、形式的には、天涯孤独と言う事になっていて、そういった映画を見ると、妙に物悲しくなります。

 

 ある日、いつも傍にいて、苦楽を分かち合った兄妹の絆と言うのを、実感する出来事が、ありました。

 

 物語の始まりは、真面目でしっかり者の兄と、とても利口で素直な妹が、施設にあずけられた事からでした。

 

 子供を手放す親には、明らかにおかしいと感じる事情もありますが、本当に仕方のない事情も多くあります。

 

とはいえ、子供にとっては、裏切りだと感じても仕方のない事でもあるのです。

 

 それが、とても仲の良い信頼しあう兄妹であった場合、・・俺たちは、二人だけだからな、俺がお前の面倒を見るから、心配するな・・と言う事になり、「お兄ちゃんと二人で頑張る」となり、その絆は、他人との間に、見えない壁が出来しまうほどの強固なものになってしまう時があります。

 

 

 

兄は、はたから見ても、勤勉実直、高校では、部活のキャプテンを務め、後輩だけでなく、部活の仲間や、クラスメートからも信頼の厚い、親分肌なところがあり、当然、部活の女性マネージャーからも、もてました。

 

 彼が、同級生の悩み事を、親の様に親身に聞いてやっているのを、時々目にしました。

 

 私から見ましたら、何と言うか、努力で作り上げたものでは無く、生まれつきの親方肌を持っているのを、ある意味、うらやましくも感じていました。

 

こういったパターンでは、特に頭脳が優秀とか、話術に長けているとか、全く関係なくて、生まれつきの器のようなもので、

 

さほど深い考えを持っていない場合があり、それが、信頼してついてきてくれる相手に、不本意な影響を与えることもあります。

 

 あれは、兄が高校卒業し、就職一年目で、妹は高校入学と言う時期に始まりました。

 

周りからの信頼篤い兄は、もちろんとてももてるタイプでもあり、中学から高校と、ずっと恋い焦がれてくれる彼女がいました。

 

 初めのころは、幼い妹のことを心配し、そういった気分ではなく、ただの友達の一人程度だったので、妹もあまり気にしてはいなくて、たまには、3人で仲良く歩く時もありました。

 

 私など、年が近いのと、性格が正反対なのとで、仲は良くも悪いと言う事もなく、ほとんど話をしたことはありませんでしたが、一度、施設単位の野球大会のグローブの取り合いで、いさかいがあった時に、すかさず妹が、兄に援護射撃をし、結構危険なことをしてくるので、これの気持ちを察して、兄をいじめるようなことにならないように、気を付けていました。

 

 私、そのころは、柔道や空手と言った部活や経験をしていましたが、通常よりかなり頭がよくて、兄の為なら、たとえ火の中水の中、何にも怖くないといった感じの妹には、一目を置かざるを得なかったのです。

 

 それから比べると、兄のほうは、信頼厚く、誰からもモテル割には、あまり考えが深いというほどでもなく、むしろとても常識的なことで動いていくタイプだったので、その細かい事は、慕っている仲間が、気を使ってやってくれるというタイプだったのです。

 

 しかし、今から思えば、案外、親方タイプは、そういった者でないと務まらないのかもしれませんね。

 

 ただ、その性格が、実は、妹のすべてを投げうったような信頼の心を、本人にはそんな気は全くなくても、裏切った形になってしまいました。

 

 兄は、就職して一年後に、学生時代のガールフレンドと、結婚を決めたからです。

 

 それまでにも、ガールフレンドのデートのお誘い電話だとかをタイミングよく出られたりすると、「兄は不在です」などと妨害をしていたりもありましたが、結婚に発展するまでは、兄妹の絆の深さを信じているところもあり、精神的なバランスをかろうじてとっていられました。

 

 しかし、兄の結婚を境に、思春期真っ最中の、支えを見失った孤独な少女は、不安の霧の中で彷徨い始めます。

 

 結婚するしないではなくて、せめて社会に出るまで、二人だけになった時の「俺たち二人だけだからな・・」そういった言葉の責任をもってやれなかったのだろうかと思います。

 

 私も、私の身近な人に、同じように周りから信頼され、頼られ、いつからかワンマンを通し、周りが従うのが当たり前になってしまった人がいます。

 

 その人に、あることで、私が、本当のことを申し上げたそれが、気に入らず、「わしに逆らうなら、縁を切る、縁切り状を書け」と来たので、馬鹿らしくなり、将来の事を考えて、さっさと縁切り状にサイン捺印して叩きつけたことがあります。

 

 その部類の人たちは、それでも相手の事を心配しているつもりなのですが、いつの間にか、単純に間違いを指摘しても、「わしがこうだと言うのだからこういう事でいいのだ!」という、筋の通らない屁理屈を押し込んでくるようになる場合があります。

 

 もちろん、一部の人で、中には、幾らでも押し切れる実力がありながら、圧力は抱擁したまま、必ず筋を通すという、職人の親方みたいな方もいらっしゃいます。

 

 しかし、そういったことが、このように二人だけと信じていた間柄にあったのだから、物すごくショックは大きかったようでした。

 

 

 

妹は、一人になりました。

 

 それ以降の事は、私も近くにいたわけではないので、分からないとしておきたいです。

 

 しかし、それから随分と経ってから、施設の園長様に、お盆の挨拶に行きました時に、ばったりと会う事になりました。

 

彼女だけは、施設を出て、県外の両親の地元で高校を卒業したのですが、その後県内に帰ってきて、就職を決めました。

 

 その報告のタイミングと、偶然一緒になってしまいましたが、私が挨拶を終えて帰るタイミングで、今でいう綺麗なヤンキー姉さんが入ってきたので、ここの卒業生で、ヤンキー風だった者はいないはずだと思いながら、まじまじと見ましたら

 

 切れるどころか、ニコニコ笑顔を向けてきました。

 

 そのにこっとした顔にはっきりと見覚えがあり、「お前ひょっとしてか?」と聞くと、屈託のない笑い顔で、「ウン」と答えてくれました。

 

ちょっとびっくりしましたが、恰好はヤンキー風ですが、笑顔は、間違いなく中学生の時の、純な少女のままでした。

 

 その心の中にある「記憶の固執」は、自分の芯の強さによって、かえって強固に自分を傷つけてたのかもしれません。

 

 でも、実際、物凄く賢い少女だったので、いつかは我に返ってくれているに違いありません。

 

 それから、きちんと就職もするでしょう。

 

そもそもですが、人って、皆、何かしらを抱えて生きています、その八割くらいは、自分のあずかり知らないところから、偶然のように出現して、そんな不本意な事柄に由来する重たくて面倒な荷物を、時には、下す事さえ出来ずに、抱えていかねばならないのでしようね。

 

 乗り越えるなんてよく言われますが、引きずっていくしかない時もあります。

 

 引きずる過程で、又は、抱えたまま歩いている過程で、それなりの力がついてきて、他人からは、一見平気に見えるくらいに歩けるようになる時もあります。

 

 そのうえで真っ直ぐ歩けるかと言うと、ちょっと大変です。

 

 その荷物の重さにもよりますし個人の体力にもよります。

 

 たとえば、この場合では、本人同士が、直接話し合いを持ってくれて、不満や駄目だったことを言い合って、出来れば、さらりと謝ることも出来れば、一番良いに違いないと思います。

 

 

 どうしてるかな

 

 

 私は、たまたまとは言え、親しいものに、こんな者たちが、何人かおります。

 

 不思議と皆、普通以上の頭脳をしていて、生まれつきの変わり者などではなく、繊細で、優しいものばかりです。

 

 頭脳的には、通常以下のおバカである私などに対しても、なぜか深い事まで、話し合ってくれたし、私のように、耳が聞こえない足元を見る様な卑怯者もいませんでした。

 

 色々な孤独や、苦労の中でそれでも生きていく覚悟をした者たちの心の中は、凄く純粋だからなのかも

 

 どうしてるかな、みんな流れる川みたいに移り変わる世の中で、打ち込まれたまま忘れられた杭になって、そんなこんな物語を、ただ純粋に見つめて、表現だけをしていられたら、いいなあ、というようなぐうたら者なのですね、私は。

 

 そうは、いっても、私の大事な家族の為に、頑張れることは頑張って、まずは仕事です。

 

 

 

さてさて

 

 

 

私の出会った子供たちの中の、一番衝撃を受けたお話をします。 

 

 

 

私が、この施設を出て、東京で、売れない芸術家三昧をやっていた頃の何年目かのお盆の事、会社から一週間の有給休暇を頂き、施設に帰郷しました。

 

 

 

いつも通り、土産も持たずに遠慮なく入っていくと、職員会議中で、大半の子供は、一時里帰り中で、幼児だけがきゃあきゃあ騒いでいました。 

 

 

 

それで、職員会議終了まで、幼児相手に暇つぶしをして遊んでやることにしました。

 

 

 

案の定、腕に足に絡みついてきて、うざいことウザイこと、ソロソロ嫌になった頃、突然一人の子供が私の前に正座をして、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、何かを激しく訴え始めました。

 

 

 

 私は、感音性難聴と言って、耳が悪く、高音が聞き取りにくいので、静かにお話をする男の子に、わけを聞いているうちに、この四歳半の少女の悲しみが見えてきました。

 

 

 

「お母さんが嘘ついた。ここでちゃんと待っていなさいよ、すぐに迎えに来るからちょっと待っているんよと言ったくせに、私は待っていたのに来なかった。お母さんが私に嘘をついたもん!」

 

 

 

そういって今はじめて見た見ず知らずの私に向って、泣きついていたのでした。

 

 

 

この子には、この夏初めて会いましたので、困惑しながらも、「そうだったのかあ、ここに居る皆そうだからね、お母さんにもいろいろあるから…でもいつか必ず迎えに来てくれるよ、暫くはこれないだろうけど、一生懸命待ってたらきっと来るよ」と、ごまかしを言って慰めると、効果てきめん、可愛くうなづいて、またはしゃぎ出しました。

 

 

 

やがて会議も終わり、園長先生も寺(住職様だから)に帰ったようなので、会いに行こうと思い「よし、それじゃ寺に行って住職に挨拶してくるから」と言って立ち上がると、彼女が「もっとあそんでよ」と飛び掛かって来てなかなか離さない、それで「住職とお話したら、また帰って来て遊んでやるから」というのを「兄ちゃんも嘘を言うとる、嘘だもん」と言ってとんでもない力で抱き着いてくる。

 

 

 

しまいには、私が切れて、それこそカブトムシを引きはがすようにはがしてから、腕2本を手でまとめ押し入れに突っ込んで、猛烈に泣く彼女を無視して寺にダッシュしました。

 

 

 

それから住職との話が1時間後くらいに終わり、施設に帰るのですが、寺の下でこの子が待っていました。

 

 

 

「うわぁ、お前何してんの?」て言い終わる前に、ものすごい満面の笑顔で飛びついてきて「やったあ、兄ちゃんが帰って来てくれた、わたしのために帰って来てくれたあ」とはっきり、泣きながら言っていました。

 

 

 

僕はというと、本当はぞーっとしました。

 

 

 

これはまずいぞ!こいつに嘘はまずいぞ!そう思いながら「そうだよ、お前のために帰ったよ、だから言ったろ、俺が嘘つくわけないだろぅ」と言って抱きしめ返していました。

 

 

 

それから、彼女を含めた何人かの幼児を寺の裏山探検に連れて行ってやったり、散歩に連れ出したりして少し積極的に遊んでやりました。

 

 

 

それから、私の里帰りも終わり東京に帰る日となり、あの一件以来無理を言わなくなったとはいえ、こいつのことが気になり出しました。

 

 

 

どうするかと考えた末、取りあえず彼女を呼んで、「これから遠いところに帰るから…又長い事会えないけどお正月に寺の鐘つきに来るよ、それまでバイバイだからね」と言ったら、にっこりして一言だけ「うん」…

 

 

 

そういう事です、大事な母親の気遣いで、かえって傷付いていたのか、感受性の強い、頭の良い子だと思いました。

 

 

 

そう思いながら、最後に嘘を言わなくてよかったと思いました。

 

 

 

その年末にも、住職に会いに帰りました。

 

 

 

ここは私の故郷だったからです。

 

 

 

彼女は私のことを覚えていたのか、友達と鬼ごっこをして必死の形相で逃げ回りながら、はじけた笑顔で視線を合わせ、そのまま走り過ぎて行きました。

 

 

 

やっとホッとしました。

 

 

 

それから何年もしないうちに、母親は迎えに来ました。

 

 

 

どうしているかな…彼女は、きっと、利口で強いお母さんになっているだろうなぁ。

 

 

 

本当に頭の良い子だったので、保育所の先生とかなっていそうだ‥お母さんの事情は知らないけれども、比較的早く迎えにいらしたので、本当にちゃんとした理由だったのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の出会った子供達

 

 

 

それから施設には様々な事情を抱えた子供がやってきます。

 

 

 

少し時代が前後しますが、これは、私が小学一年くらいの頃の孤児院での事です。

 

 

 

施設と言っても、心ある職員の方たちが、頑張ってくださっていて、子供達は皆、キラキラしていました。

 

 

 

テレビドラマのようなことは、めったにありません。

 

 

 

でも、こんな事がありました

 

 

 

ある、倒産してしまった企業の社長さん一家が、一人の女の子を連れてやってきた日です。

 

 

 

私たちは、新入りが来ると言われて、みんな揃って、玄関で、待ち受けていました。

 

玄関の大きな一枚ガラスの扉が開き、とても上品で、暖かそうな家族が、現れました。

 

 

 

グレーのコートを着た父親が、静かに挨拶をされ、私と同じ、小学一年生の娘を促しました。

 

 

 

もう、全ての話を終えていて、納得していたらしく、父親も顧みずに、しゃがんで手を握っていた母親の懐から出て、何の抵抗もなく、並んでいる私たちの手前まで来て、止まりました。

 

 

 

目は、真っ直ぐ宙を指していました。

 

 

 

私は、、これから、彼女が、ご挨拶をするものだと思っていましたが、違いました。

 

 

 

一旦止まった彼女は、逃げるようにきびすを返すと、母の胸めがけて飛び込み、ワーッと、大きな声を上げて激しく泣き出しました。

 

 

 

母親は、知っていたように深く抱きしめていました。

 

 

 

父親は、うなだれて、動けませんでした。

 

 

 

彼女は、泣き止まず、そのままの光景が、しばらく続きました。

 

 

 

私は、そして、おそらく、他のみんなもむしろ、びっくりしたのでした。

 

 

 

なんで、こんなことが、本当にあるのか正直に言って、すくなくても、そのころの幼い私には、理由がわかりませんでした。

 

 

 

本当にわからなかったのです。

 

 

 

この光景は、今でも、痛い位脳裏に焼き付いていて、悲しい話としてではなく、なにか、別の世界のことで、自分には理解の及ばない所で、何かが起きているのだけれども

 

ただ、凄く胸の中をかき回されるような、不可解な事件として、心の奥の奥に、「記憶の固執」として、刻まれています。

 

 

 

たぶん、今でさえ、理解し切っているとは言えないと思います。

 

 

 

その衝撃的な事件とは裏腹に、彼女は、すぐに施設の仲間に溶け込みました。

 

最初から、しっかりとしたお姉さんで、明るくて、凄く利口でした。

 

 

 

当時の施設では、一日一時間、勉強会があったのですが、総じて勉強嫌いで、TV漫画が気になってソワソワする奴、宿題が分かんないと泣くやつ、なぜか喧嘩を始める奴など、とにかく静かには、すみませんでした。

 

 

 

そんな中で、彼女だけは、静寂の中でのように自分の宿題を終わらせ、隣の分かんないとわめくやつらに、上手に勉強を教えてあげていました。

 

 

 

そのあほな奴の一人に私も入っていて、「2×2は、4だけど、2+2とは違うんだよ、掛け算だから、2が二つあるって意味なんだよ」って言って教えてくれたのを、今でも可愛い思い出となって、心の宝箱の中に、大切にしまわれています。

 

 

 

どうしてか、彼女が教えると、皆大人しくなり、「うん」なんて素直な返事をしていたりしました。

 

 

 

それから、頭が良くて、大人で、優しくて、カッコイイと言うか、ちょっと恋心みたいのを感じていました。

 

 

 

いわゆる、お嬢様でしたが、わがままなことは、全くなく、施設でくださるお小遣いなど、担当の保母さんの管理の下、ちゃんと貯金をしていて、将来の事を考えているような感じがありました。

 

 

 

たまに、変わったことをしていて、「体を柔らかくしてバレリーナになる」と言って、職員からもらった御酢を飲んでいたり、体を動かしたりしていましたが、高校の新体操で、本当に県大会優勝をしてしまいました。

 

 

 

物静かなくせに、意志が強靭なのです。

 

 

 

私は、小学二年で、この子といた施設を出ることになり、一緒に暮らしたのは、二年足らずだったのですが、先の出来事が、あまりにショッキングであったのと、彼女の独特の雰囲気と、少しの恋心で、十年も幼馴染だったような錯覚になります。

 

 

 

私がここを出てから、四年後の小学6年生の時に、その施設が、別の場所に移されました。

 

 

 

その新しい「児童福祉施設」の記念式典に招待された時に、再会しましたが、招待客然としてしまって、誰ともお話はしませんでした。

 

その出し物舞台で、彼女が、習っているバレーを披露し、その、柔和で、上品な表現に、憧れのような恋をしたのを覚えています。

 

 

 

その施設の名前は、彼女が付けました。

 

 

 

パンドラの箱に残された、希望を感じさせる名前で、現在も、そこにあります。

 

 

 

それからは、まったく会う事は、なかったのですが、ある折に、手紙を書いた、元の施設指導員から、消息の手紙を頂き

 

、高校に入って新体操を始めて、県大会優勝をしたり、水泳のインストラクターなどを経て、立派に公務員となって、

 

幸せな結婚をしているとのことでした。

 

 

 

すっごく彼女らしいと思いました。

 

 

 

それと、物凄く嬉しいという感情が沸いてきます。

 

 

 

それから、たぶん私は、もう一度、結婚直前か、直後に、郵便局で会っていると思います。

 

 

 

小学一年から、二年足らずの間しか暮らしていませんし、田舎の郵便局で会った彼女は、二十歳を過ぎで、顏は変わっているはずですが、「君ですか?」と質問されて、「そうだよ」と答えたら、目を丸くしてニコニコ笑ってれてたけれど何も言わなかったから、その時は、ここらで絵を描く変人として知られていたので、その事かなと気にも留めていませんでした。

 

 

 

ただ、郵便局を出た直後に、

 

 

 

あっ!ちゃん(彼女の名前)か!と、閃きみたいなものを感じました。

 

 

 

とても美人で、明るいところは、全然変わりませんでした。

 

 

 

私は、そのまま振り返らずに帰ってしまい、彼女もそっとしていてくれたので、その後の事は、知らないままだけれども、

 

 

 

あのつらい別れを経験した彼女が、一生懸命、前向きに生きてきて、とても幸せな結婚をされ、たぶん子供を物凄く大事に育てあげて、社会に送り出し、そうやって「幸せの輪廻」を、回している様子が、手に取るように想像できます。

 

 

 

その様子が、施設の元職員様の手紙で、勝手な想像だけではないと確信出来て、嬉しい!本当に、

 

 

 

「彼女は、彼女が付けたその児童福祉施設の名前の通り、強くて明るい希望だし、私が、頭の悪いくせに、いつまでも頑張れる、本当の理由でもあるのです」

 

 

 

幼い頃の、たった一年と少しの間の出来事が、一生を、見守ってくれるなんて、フェルメールの「真珠の耳飾り」のまなざしみたいです

 

 

 

                    一瞬の時間が、永遠を刻むそれです。

 

 

僕の出会った童たち

 

 こういったところの童たちも、色々なものを胸に秘めながらも、普通に、色とりどりの色彩を見せてくれます。

 

 

 

その一色に、私が、よく絵に描いたやんちゃ童の一人で、小学3年生の、物凄く少年っぽい少女がいて、この子の机周りは、スカートの代わりに、サスペンダー付きのジーンズ、鏡や櫛の代わりに、ボールと縄跳びが転がっていました。

 

 

 

鏡は、洗面所に大きなのがあり、スカートは、縄跳びに邪魔だからだそうです。

 

 

 

出会った初めから、思春期も含くめて、記憶にある限りの間、そんなでした。

 

 

 

それから、凄く生意気でした。

 

 

 

彼らの三角野球に、高校生の私が、これに呼び捨てでピッチャーをやらされたりしていましたから

 

 

 

そのくせ、たまが速すぎと言っては、切れまくり、打てたら打てたで、高校生のくせにと、バカにする、やんちゃもんでした。

 

 

 

この、色白で、鼻筋の通った、縮れ毛の、紅を引いたような唇の少女は、とくに、輝くような漆黒の眼を持っていました。

 

 

 

これが中学生の時に、化粧でもしているのかと聞いたことがあり、「そんなのするわけないでしょ」とそっけないのを、かえって感心し、

 

 

 

カッコいいくらい綺麗なので、「絵を描かせろよ」と、モデルにし、何作も描き続けて、自分の個展に、出品し、お客様にもらわれていきました。

 

 

 

暗闇の中に、光で浮かび上がる、「沈黙の少女」と、クリッとした目を向ける、ヘップバーンみたいな強さの有るものとです。

 

 

 

あの女優の、強さの美しさに、似たものを感じたからです。

 

 

 

今考えてみたら、あれだけお転婆が、よく大人しく椅子に座ってモデルをしたものだと思います。

 

 

 

素直且つ、身勝手、それから、正直で、手に負えない。

 

 

 

ニーチェの夢中になったルー・サロメみたいな童でした。

 

 

 

それから、私も社会に出て、久しぶりに、施設のクリスマス会に遊びに帰ったとき、電車の都合で、終わり近くになってしまい、顔だけ出してればいいかと思っていたら、

 

 

 

これが、私を見つけて、手招きをしてくれて、ケーキを分けてくれました、「すげー、御前って優しかったんだねー、ありがとうーー」と、喜んで見せましたが、この優しさが、とてもカッコいいおてんば娘でした。

 

 

 

その時に、おまえは美人だから、スカートとかはけばいいだろ?って聞いてみましたら、「持ってない」、プレゼントしてやるよっていうと、「いらない」、ボーイフレンドくらいいるのか?「おらん」、取り付く島もないので、「ケーキありがとうね」といっといたけれど、中学になっても、ジーンズにあぐら組みと、腕組み姿。

 

 

 

なんだか、野良のボスネコ相手に話をしているみたいでした。

 

 

 

そんなだから、高校生になったら、どっしりと腰の据わった感じになり、ダイエットでもして、中学生の時くらい美人だったら、俺、凄く良い絵が描けるから、って言ったけれども、

 

 

 

「描いてもらわんでもいいから」でした、やっぱり。

 

 

 

そいつが、ひょうひょうとして、施設の二階の窓の柵に座っていて、その裏の池と、杉の森とを、夏の風が吹いていくのが、凄く気持ちよさうだったので、東京のアパートに帰ってから、油絵を描いて、個展の作品に追加したりしました。

 

 

 

たぶん、今は、結婚して、子供を大事にして、素敵な家庭を築いていのだろうと思います。

 

 

 

旦那を尻に敷いてるのだろうけれどね。

 

 

 

 

 

僕の出会った子供たち

 

バンバンの歌で、「幸子」っていうのがありました。

 

 

 

幸せと言うテーマと、娘の名前と、これから現実の中で強く生きていってほしいと願う、親心と、大人になろうとしている子供の葛藤、でしょうか。

 

 

 

徳島の山深い部落から、小学校高学年の少女が、私たちの暮らす施設に、連れてこられました。

 

 

 

当時、その一帯は、学校に行くにも、急峻な山肌を降り、一時間も峠道を歩いて、ふもとの村に出てなくてはならないし、電気もないし、何より、アルプスの少女ハイジ状態でしたから、学校に殆ど通わせてもらっていなかったとのことでした。

 

 

 

県の児童福祉として、最低義務教育を終えるまで、教育や文化に理解を示さない親元から離され、半強制的に、入所と言う事になったようでした。

 

 

 

それで、施設の職員たちは、とても心配をしていて、私たちにも、事情説明がありました。

 

 

 

山でいたころは、体中垢だらけ、髪は蜘蛛の巣が絡まっていたり野生児だったと言う事でした。

 

 

 

当然、急な、街での生活になじめず、初日から、施設を逃げ出しました。

 

 

 

いきなりの総動員での、大捜索となり、たまたま私が、お寺の裏山で、発見し、とにかく連れ帰りました。

 

 

 

さらに、三日後の朝、再びいなくなり、もしやと思い、同じ裏山を見て回ると、茂みにいるのを発見、雑木林の中に、逃げ出したので、全力で追跡です。

 

 

 

雑木林に入るまでは、すぐに追い付きそうになったのですが、茂みに突入した途端、野生の雉の様な早さで走りぬけ、あっという間に見えなくなりました。

 

 

 

仕方がないので、しばらくうろうろ探していたら、灌木の下で、かがんで烏瓜で遊んでいるのを見つけました。

 

 

 

相手も、こちらに気づきましたが、今度は逃げず、いたずらっぼく笑って、烏瓜をはじいて見せました。

 

 

 

近くで捜索している声が聞こえてきたので、なぜか一緒になって隠れ、しばらく黙ってみていました。

 

 

 

私も、山奥の部落で、牛や鶏を散歩させて暮らした一時期があり、こういったものの気持ちがわからないではないから、強制送還するつもりはありませんでした。

 

 

 

「山は好き?」と聞くと、動きを止めて、烏瓜をじっと見つめていました。

 

 

 

「そろそろ帰ろう」と言うと、仕方なくついてきました。

 

 

 

捜索に当たった子供たちは、学校に遅刻、自分も遅刻、山の子は、落ち着かせるために、学校の初登校を欠席となりました。

 

 

 

その後も何度か、脱走をしましたが、そのたびに誰かに付き添われて、帰ってきました。

 

皆、同じように、強制することも、迷惑云々と説教することもなく、笑いながら一緒に帰ってきましたので、いつの日か、信頼関係ができ、気がついたら、ちゃんと毎日、学校に行くようになっていました。

 

 

 

それからは、友達もでき、いじめられるでもなく、良い未来が開けていくのだと思っていました。

 

 

 

彼女が、学校や施設の子供たちに、慣れたのは、三か月後くらいですが、環境の変化によるホームシックで、感情の起伏が抑えきれなくて、神経質になっていたように思われました。

 

 

 

それでも、一人でいるのが怖いときは、心を許せる友達や保母さんに甘えることも出来るようになり、、髪の毛を櫛でとかしたり、洋服の着こなし方などを教えてもらっていました。

 

 

 

朝、学校に行く前に、洗面所の大きな鏡の前に立ち、歯を磨き、顔を洗って、髪を整え、制服のしわを伸ばし、私と目が合っても、すました顔で、ふふんと言った感じで、当初の騒動が、なかったことのようで、本当に健気でした。

 

 

 

中学では、ほとんど欠席もなく、義務教育を終え、職員としては、進学や就職にと、世話をすべきだと考えておられ、その方向で、親を説得することとなりましたが、

 

 

 

「県の児童福祉課の言うとおり、義務教育は終えたので、もう子供に用はないはず」

 

 

 

そう主張して、あの山の奥に、子供を連れ戻してしまいました。

 

 

 

施設の職員、県児童相談所の職員が、何人かで、家庭訪問として訪れ、再三の説得をしたと言う事ですが、はっきり児童虐待と言えるわけではないし、家の事をさせている程度では、何をする権利もないと言う事で、どうすることも出来ませんでした。

 

 

 

実は、その騒動の時は、私は、施設を出て、イラストや画家などをして、東京で暮らしていましたが、お盆帰りをしたときに、その部落に行ってみたのです。

 

 

 

実際、聞きしに勝る急な崖まがいの一面に、物凄い段差の段々畑があり、お城みたいな石垣で、わずかな平地を確保し、小屋のようなお家が立てられていました。

 

 

 

納屋には、ぎっしりとまきが蓄えられていて、囲炉裏や、かまど、冬場なら、消し炭なども作って、使われていたのではないかと思いました。

 

 

 

いわゆる山岳部族と言うものがあるとしたら、この一帯がそうでした。

 

 

 

私が、この件で、特別権限がある訳ではないのですが、お話をお聞きしてほしくて参りました、と言う事を申し上げましたが、全く話を聞いてくれず、彼女にも会えませんでした。

 

 

 

ただ、長男が出たので、「いろいろ大変なところだけど、お前らの就職やこれからの生活などで、職員が心配している、街に出仕事を見つけるつもりはないのか

 

 

 

そんなことを少し言いましたが「忙しいから」とだけ言って、その妹とは、話をさせてくれず、それきりとなりました。

 

 

 

宿の人も、集落の事は、ほぼ把握されていて、経済的な事や、社会福祉的な事等、複雑なことが関係しているとのことでした。

 

 

 

そこでやっと、あれだけ脱走していながら「山は好きか?」の問いに、好きとも、家に帰りたいでもなく、黙っていた理由が、分かったような気がしました。

 

 

 

そして、彼らは、ここで生まれ、このままの暮らしを守り、生きていくかと、考えたら、ふと、安倍公房の「砂の女」の世界を思い浮かべました。

 

 

 

この山里にも、この暮らしにも、もちろん幸せは、あるに違いありません。

 

 

 

しかし、あの童たちにとって、本当にこのままが幸せなのか、もう少し視野を広げられる機会が与えられないと、本人にもわからないのではないかと思います。

 

 

 

実は、心残りなこともあり、数年もして、もう一度、その村のお宿を尋ねてみたのです。

 

 

 

村の方の尽力で、石段の道を上る崖のような部落に、果樹収穫用モノレールが、村への交通手段として設置され、電話も開通していました。

 

 

 

でも、そこには、彼女はいませんでした。

 

 

 

県職員の方のお話も聞くことが出来ました。

 

 

 

それからもう、妹分ではなく、何処かで、働いていたり、奥さまをしていたりするかもしれませんが、顔を見ても、思い出しも出来ず、どこにでもいるオバさんになって、バーゲンなんかで出会っていたりしたら、

 

 

 

「ちょっとそれ私の物だから、どいて!」

 

 

 

なんて怒鳴って突き飛ばすほど、幸せであったら、とっても嬉しい。

 

 

 

あれから何十年もたつ、元気でいて。